24時間テレビの功罪
- guan satai
- 2020年8月23日
- 読了時間: 5分
現在、24時間テレビは夏の風物詩となって久しいが、批判も多い。チャリティーを名乗っているのに出演料を出すなんてけしからん、など、テレビ番組としての在り方にも批判の矛先が向いているが、しかし、最も批判を受けているのはいわゆる感動ポルノだろう。障碍者にダンスや登山をさせ、番組の決まった時間に成功させ、本人、あるいは両親、出演者が感動のあまり泣き出すというお決まりの展開のあまりの茶番劇に鳥肌が立つ思いをしたことのある人は多いだろう。
この感動ポルノは果たして障碍者の社会進出の助けになっているのだろうか?番組の始まったころは障碍者に対する偏見は強く、街で車いすを見かけることはほとんどなかったそうだが、現在は探せば見つけられる程度には多くいるようになった。これは番組の影響だろう。障碍者という、恐らく身近にあまりいない存在を、短いとはいえ毎年ある時期に集中的に取り扱うことである程度身近な存在にし、偏見を取り除く効果はあったに違いない。これは政府にもできない偉業であり、素直に認めるべきである。しかし、近年ではどうだろうか?感動ポルノが中心となりすぎて、障碍者は努力しなければならないという偏見が強くなっていないだろうか?
元来、障碍者に対する取り組み方には二つ存在する。一つは障碍者が努力する「障碍者が社会に合わせる」方法であり、これには車椅子や歩行訓練、白杖などが該当し、障碍者がある程度の訓練の末、一般人と同じ能力を手にするという思想である。もう一つは公共施設が工夫をする「社会が障碍者に合わせる」方法であり、これには点字ブロックや手話などが該当し、社会がコストを担うことで障碍者の生活水準を向上させるものである。後者にももちろんある程度の努力は必要だが、前者は障碍者(それから器具メーカー)のみが努力を強いられるのに対し、後者は障碍者とともに一般人も努力を強いられる。手話は最も分かりやすい例であり、修得さえしてしまえば会話がスムーズに成立するが、習得は障碍者、一般人共に他の語学と同等の修練を必要とする。
もちろんこの両者に善悪はなく、また、できることに違いはあるだろうから、両方のアプローチが必要なのは間違いない。いくら障碍者が寝ていても移動できるように社会制度、設備を整えたとしても自分で動けるようになりたい人は多いだろう。そのための努力を妨げる権利は誰にもない。例え本人がそれで苦悩しようとも、本人がやりたいのだからそれを止めることはできない。しかし、感動ポルノでは前者のアプローチばかりを強調する。確かに「障害を持っていてもできることは多いんだ」と主張することは正しい。物理的にできないこと以外はどうにかしてできるようにする手段はあるだろう。しかし、一般人でも人によってはできないこと、難しいことを障碍者にさせる(注意:個人の自由意志ではなく、番組の企画などでやらせることを言っている)のは論理的に誤っている。なるほど、登山やダンスは障碍者にとって大きな挑戦であるだろう。しかし、時に一般人でさえ登山やダンスをすることができないこともあるのに、時間制限や成功のタイミングも決められた中で成功を強制するのにいったい何の意味があるのか。彼らはバラエティーだから、感動を求めるだろう。感動には成功がつきものでなければならない。少なくとも、汗を流し、ギリギリまで努力した結果での失敗でなければいけないだろう。そんなことに何の意味があるのか。できないことをできないと主張して何が悪いのか、そしてできないことを補うのが社会ではないだろうか?これは一般人でも同じことである。個人にはできることとできないことがある。できることは好きにやればいい。できないことは互いに補えばいい。ただこれだけで済むのになぜ障碍者はできない、難しいことを克服しなければならないのだろうか?それは単に一般人ならできることだからであり、障碍者は社会に合わせろというエゴの表出ではないだろうか。
もちろんこれが「自分にもできるかも」という精神的支えになる可能性は大いに存在するが、それを前提に障碍者との付き合い方を考えるのは間違っている。ならばどこにも障害のない人たちは文武両道、性格容姿その他諸々すべて完璧な人間にならなければならず、できないことがあるまま放置しておくのは怠慢であることになる。そのような社会はディストピア以外の何物でもないだろう。しかし障碍者にはそうであれと押し付ける。大変な矛盾である。障碍者の努力を否定するつもりはない。私が指摘しているのは障碍者の弛まぬ努力を前提とした、あるいは不可能への挑戦を前提とした考え方の残虐性である。それはどうしてもできない人間に対する蔑視へつながりかねない危険な思想なのである。私たちは不可能なことに合わせて助け舟を出すことをしなければならないのであって、難しい、不可能な人に対してがんばれと言うだけではないのだ。ここでそのようなチャレンジをするにあたって必ずサポーターがついているから、できるだけの補助はしているという反論も考えられるが、私にはそのサポーターこそできないと辞めることを不可能にする看守に思えて仕方ないのだ。さらに言ってしまえば、彼らは時間通りにチャレンジを成功させるための見張り番ではないのか?実際、富士山登頂直後に倒れこむ子供を無理やり起こしてインタビューを受けさせるといったかなり怪しい行動も確認されいている。
以上の観点から、感動ポルノの蔓延は危険であり、両者が互いに歩み寄る姿勢こそが重要で、チャリティーを名乗るのであれば、普段からそうあれと強制されているような努力を感動物語として紹介するのではなく、社会が何をできるのか、何をしてきたのかという事実を紹介し、社会に努力を促すべきなのである。手話講座を放映するのもいい。障碍者施設の現状を放映するのもいい。今、何が起こっているのか、それを大衆に知らしめるのがマスコミの本懐なのだから。最も、彼らにとって重要なのは視聴率であって決して社会的正義ではないのだから、そんな数字が取れないものを放映することはないのだろうが。だったら彼らは一般市民の代表という面をするべきではない。一般市民の代表が私利私欲に走るのは古代ギリシャや古代ローマの民主制崩壊の嚆矢だったのだから。
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